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2001年の9月11日アメリカ同時多発テロ事件があった日、私はパチンコ屋さんで働いていました。
その日、ちょうどパチンコ台の入れ替え作業を深夜やっており、演劇部の先輩が一生懸命に映画みたいだとか恐ろしい状況になってるとテレビを見ては現場に戻りと騒いでいる中で、自分は初めての入れ替え作業で大変だった記憶があります。。
さて、この住み込みのパチンコ屋さんでのお仕事。
この事件が起きたくらいのころはまだ働き始めてそんなに経っていなかったような気がします。
で、八王子の元住んでいたアパートに戻ったのは10月の終わりころだったと思います。
都合3ヵ月くらいだったでしょうか?
(6月くらいから仕事していたような気もするので4~5カ月くらいいたかもしれません、、。)
ともかく、このときの生活は何だかまだまともだった方だと思います(笑)
実家から軽トラを借りて、山梨のパチンコ屋に必要な荷物を詰め込んで、働き始めました。
パチンコ屋の裏に一件の大きなおうちがあり、別荘のような格好のその家は、従業員たちの寮になっていました。
昼間は賄いづくりや掃除などを行う年配の?女性がいて、夕飯はその人が作ってくれていました。
自分の部屋をあてがわれて、荷物と言っても大した荷物はありませんでしたが、テレビとビデオを持ってきていました。
簡単な洗面用具、洋服ととりあえずすぐ生活ができる状態でそこでの生活がスタートしました。
家賃タダ、水道光熱費タダという、今考えたらとても恵まれた環境でした。
仕事は17:00(16:00だったかな?15:00だったかも?)から24:00まで。
最初は、昼番の仕事をしている人たちと一緒にホールをぐるぐる回ります。
昼間のスタッフも2人か3人かしまいませんでした。
夕方からのメンバーも自分を入れて3人?4人?しかいませんでした。
寮に住んでいたのは先輩と、同僚の3人。
2人とも夕方から入ります。
で、そのうち昼だった男性のメンバーが夕方に入ったり、昼に回ったりとどちらだかわからない状態で働いていました。
で、最終的にはその人も寮に住むようになり、ワケが分かりませんでしたが、自分はあまり干渉せず、自分の生活を過ごしていました。
仕事自体は、ホールの中をぐるぐる回り、玉を運んだりメダルを運んだり?
マイクで音声案内をしたり。。
ラクな仕事?でした。
ある程度慣れた後は、換金所に詰めることもありました。
こちらはもっと楽でしたが、でもお金を扱うだけに気は使いました。
ある程度仕事に慣れてくると、自分の好きなCDをホール前面に流して歌ったりしていました(笑)
仕事中はほぼホールをぐるぐるするだけで、特にやることがありませんでした。。
というのも、山梨県のだいぶ奥地で、まわりには何もありません。
近くのコンビニまで車で15分~30分くらい行かないと何もありません。
最寄りの駅もとても遠かったような気がします。
そんな状況を分かっているはずなのに、寮に住んでいた2人の先輩たちは車を持っていない(汗)
で、原付や自転車すら持っていない状態で、近くのバス停まで歩いて最寄りの駅まで行っていたようです。
当然自分の軽トラが活躍することになるのですが、、
自分が休みの日には甲府まででて、買い物したりしていましたが、相変わらず欲しい物ってそんなにないので、半日もすれば寮に戻っていました。
さて、ここでの私の生活は働いている間にドラマをビデオに録画しておいて、仕事から帰ると取っておいたビデオをひたすら見て、明け方になったら寝るという生活をしていました。
とはいっても、このころどんなドラマを見ていたのか全く覚えていません(笑)
で、2カ月くらいたった時でしたか、パソコンを購入しました。
秋葉原まで行って中古のノートパソコンを購入、当時で20万近くしたと思います。
で、ついでにタイピング用のソフトも購入し、独学でブラインドタッチの練習をしてました。
この時にやっておいたおかげで多少はブラインドタッチができるようにはなりました。
今でもその経験は生きています。
今はどうなのかは分かりませんが、自分が学校に行っている間はパソコンの授業というものがありませんでした。
インターネットも今のように整備されていなかったと思います。
で、ノートパソコンを購入した後、インターネットにつながるように専用のPHSを新規でつなぎましたが、そもそもインターネットなどしたことがなかったので、全く使いませんでした。
たぶん、このパチンコ屋さんで働いていた時に解約したと思います。
なのでパソコンはホントにタイピングの練習だけのためにあったと思います(笑)
ドラマを毎日見つつ、演劇部の先輩が『サクラ大戦』にハマっており、123と連続でゲームしました。
ここでの生活は冒頭でもお話ししたように、まだまともだった気がします。
お風呂も毎日入っていましたし、仕事終わりに夜食として、ご飯だけは炊けていましたので、ご飯だけは食べることができました。ほぼ、毎日アジシオをかけて食べていましたが(笑)
冷蔵庫が持ち込めなかったので、このときはホント毎日アジシオご飯を食べてました(笑)
寝るところにも不便がなく、生活も安定しており、お金を使うところも近くにない(笑)、ホント安定はしてましたが、振り返ると機械のような毎日でした。
結果的にそこを出ることになったのはそういった毎日に嫌気がさしたからでしょう。
ここで毎日を過ごしても安定してお金は貯まるかもしれないけれど、本当にこの仕事でいいんだろうか?もっと面白いことがあるんじゃないか?と考えた末のことだったと思います。
あと、ここでの思い出は、従業員のみなさんたちと行った最後のカラオケでしょうか?
なんか、ああいった形でお別れ会を開いてくれたのはとてもうれしかったですね。
今でもちょっと泣けてきます(笑)
振り返ると、こうやって大事にされた職場ってあまりないような気がします。
些細なことなんでしょうが、親睦会・お別れ会って大事かもしれませんね。。
そうそう、私、パチンコやスロットってやらないのですが、ここで働いている時は契約上24:00まで働かなくてはいけないのですが、お店が閉まるのが23:00で、お客さんが残っていることがまれだったので(笑)、だいたい22:30くらいからできるところの掃除やら戸締りやらを始めてしまいます。
23:00になると完全に戸締りをして、できなかったところの掃除なんかを終わらせてしまうと、早ければ23:15には終わってしまいます。
で、契約上は24:00ですが23:30を過ぎたらOKが出るように交渉をしてもらったらしく、23:30を過ぎるまでは時間をつぶします。
あまりに暇なときはみんなでパチンコをします。
お金を払わずに自分で玉を取り出して、自分でパチンコをやって終わったら全部戻して終わりです。
お金がかからないパチンコではありましたが、この時が人生で初めてのパチンコでした。
あとにも先にもこの時期だけ、しかもお金をかけないパチンコだけ経験をさせてもらいました。
ぶっちゃけた感想ですが、あんまりおもしろくはありませんでした。
同僚の先輩に聞くと、
「お金がかかってないと面白みもないよね~」
とのことでした。
簡単に1000円2000円が消えていくのなら、何か美味しいものでも食べた方がまだいいな、と思っていましたが、当時と変わらず今もそう思います。。
たった数カ月間ではありましたが、思い出しただけでもけっこうありました。
まだまだ自分が20代前半のひよっこだった時代に、一時期を過ごさせてもらったパチンコ屋さんでした。
私が出た後数年後にはこのパチンコ屋さんは閉店したそうです。。
そりゃそうでしょ、1日でのべ50人くらいしかいなかったですから(笑)
しかも、毎日同じ顔。
まわりの農家さんがヒマつぶしに来ていたくらいで、ほんと、ガラガラのパチンコ屋さんでしたからね(笑)
このあと、再び八王子に帰るワケですが、最後の日、八王子にまだ住んでいた友達が迎えに来てくれて、一緒に軽トラにのって八王子に帰ります。この友達、八王子でずっと自分と同じ建物に住んでいた友達で、後々ホントにお世話になります。
また近いうちにそのお話もできたらと思います。
以上パチンコ屋さんで働いていた時のお話しでした。
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