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さてさて、たけの引越記録 2件目に突入します。

1件目の部屋の様子はいかがだったでしょうか?

2件目は比較的まともなアパートです。
トイレ一体型のユニットバスではありましたが、ともかく、自分の部屋でお湯につかれるというのは本当に天国だったなーと当時の自分は感動していました(笑)

洋間6畳一間1Rで廊下?にキッチンがあり、向かい側にユニットバス、洗濯機はベランダに置いてました。
家賃は28000円。
引き落としだったか、振り込みだったかは覚えていません(汗)

元々いた1件目のアパートをでるために、親に黙って部屋を借りるため、新宿まで行って不動産屋さんと契約。保証人はたぶん要らなかったと思います。緊急連絡先という形で実家の住所は書いたものの、保証人不要でその分敷金か保証金という形でお金を支払ったような気がします。

トータルで20万円弱くらいかかったと思います。
お金を貯めて払えばよかったのでしょうが、このときはアイ●ルで20万円借り入れて支払いをしました。

この部屋に住んだとき、私が何をしていたかというと、大学を辛くも卒業した後、しばらくフリーター。
でいろいろなお仕事を経験したのち、どん底時代を迎えます。
その後見つけた携帯電話の修理工場で9カ月を迎えようかとしていたときに引っ越しをしました。

当時の私は八王子から武蔵村山という陸の孤島に毎日原付で通っていました。
携帯電話の修理工場がこの武蔵村山というところにあったのですが、陸の孤島と呼ばれる由縁は鉄道が通っていないためでした。また、あまり聞いたことのないマイナーな土地であったため、ここでの生活はあまり記憶にありません(笑)

実際に住んだところは隣町の西多摩郡瑞穂町というさらにマイナーなところだったため、家賃もかなり安かったです。
ただ、大きな街道沿いに面した場所で、アパートの正面にサイゼリアがありました。
サイゼリア自体は大きな街道に面しており、コンビニやラーメン屋さんなどが徒歩圏内にあり、原付でちょっと移動すれば生活に必要なものはすべてそろうという環境でした。

携帯電話の修理工場までは原付で10分ほど。
八王子から毎日1時間かけて通っていたことを考えれば、非常に近くなり、仕事も毎日のようにしていました。
工場自体が365日休みなく稼働するため、基本的にはシフト制だったこともあり、比較的自由に休みが取れましたし、逆に毎日のように仕事することもできました。

ここでの生活は、部屋に対しては特に大きな思い出はありませんが、ともかく、若かったからかなー(笑)
いろいろありましたねー。

ここでは都合どのくらい住んだのかな?
更新まではしなかったので2年は住んでいなかったと思います。

ともかく、私にとってお湯が出る部屋第1号となったこの部屋は、いまだ記憶に残っています。
何が一番覚えているかというと、2003年阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた夜、シャワーを浴びながら大声で六甲おろしを歌っていたのを覚えていますね(笑)

この部屋で巻き起こったこと、いろいろありますが、それはまた別の場所で(笑)
この部屋に住んでいる間に、まともな生活を取り戻したというか、ようやく1人で生活することができるようになりましたね。

毎月家賃を含めて7万円くらいで生活をして、残った10万円くらいを貯金に回し始めたのがここでの生活でした。
アイ●ルで借りたお金を10万円づつ2カ月で返済し、それからも毎月10万円づつ貯金に回す。
通帳に初めて100万円を刻んだ後は極力崩さないようにさらに貯金するようになりました。

また、ここでの生活で、毎日仕事から帰るとご飯だけを炊いて、納豆ごはんの毎日の生活スタイルが出来上がりました。
納豆に飽きた場合は卵をかけてみたり、塩をかけてみたり。。。

食費をとことん切り詰める生活。

そういった基盤となった2件目の部屋でしたね。

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