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さて、どん底時代から這い上がるために入った携帯電話の修理工場でのお話になります。

工場自体は武蔵村山という場所にあり、当時住んでいた八王子から原付で約1時間のところまで毎日通っていました。
この原付に乗っている間というのも、基本的には運転に集中できるため、当時の自分にとってはとても助かりました。
いろいろな雑念や、自分の部屋でじっとしていると余計なことばかり考えてしまうため、この通勤時間もとても良かったと思っています。

さて、工場でのお仕事は8:50からだったと思います。
12:00から13:00まで昼休憩。で、17:35までだったような気がします。
何だか中途半端な時間ではありましたが、特に違和感もなく、ただ、働いていました。

工場の中は至る所に携帯電話が山のように積まれていました。山と積まれた段ボールやオリコンの中に携帯電話がぎっしりと詰まっていて、何をしているのかすらわからない状態でした。

これは後々この工場の仕事を正社員として働いたので、今でこそなんとなく説明はできますが、派遣で突然あの場所に放り込まれてもワケが分からないでしょうね(笑)
というか、当時の自分もワケが分かりませんでした。

で、最初にやった仕事は、携帯電話をパソコンにつないで、まず、携帯の電源が入るのを確認します。
で、ちゃんと待ち受け画面になったら、パソコン画面の「スタート」をクリックします。
すると、携帯電話の画面が切り替わり、何らかの処理が始まります。
で、3分ほどすると、パソコン画面、携帯画面ともに『OK』がでます。

で、携帯電話の電池を外し、次の携帯電話に電池を装着し、再びパソコンとつなげ、「スタート」を押します。
また3分待って、「OK」ヶ出たら次の携帯電話をつなぎます。
賢くなると、もう一つ電池を借りてきて、「OK」がでたら、次の携帯電話をすぐつなげられるように段取りをします(笑)
こうすることで、極力パソコンの空き時間のロスをなくし、1時間で20台処理できるようになります。

で、1時間のうちほとんどがすることがない仕事です(笑)。
これを、朝から晩までひたすら繰り返して1日が終わります(笑)

今考えるとすごい仕事だなーと思いますが(笑)

この仕事、何をしているかというと、携帯電話の内部データを消去する、「白ロム」という作業です。
で、電池をいっぱい持ってきて、消す前のお客さんのデータをのぞき見しながら暇をつぶしたりしてました。

当時の携帯電話はもちろんガラケーです。
折りたたみ電話初期のころの時代で、私が入った当初、そのメーカーが出した、折りたたみ電話に初めてカメラを搭載したことでバカ売れし、そのウリのカメラに出た不具合が、とんでもない修理量を出してしまった故の派遣社員だったようで、私が入った7月頭はまさにピーク。
全員がほぼ22:00過ぎまで残業。それでも全然さばけないような状態でした。
私のやっていた仕事は何かというと、携帯電話が修理で入ってきます。
で、中の基盤を丸ごと交換します。
でその交換した基盤にお客さんの元のデータを入れて返却していました。

これを修理と呼んでいました。

で、残った基盤を検査して問題無ければ、次の修理品に良い基盤として再利用していました。
これって、一時的に基盤の交換だけを行っているようで実態は次にまた修理として返ってくるのでは?と思いましたが、比較的、データの不具合が多かったようで、そこまで多くの際修理は出ていませんでした。

なので、私がやっていた作業は、もともとはお客さんの基盤でお客さんのデータが残っていた基盤を白ロムすること、だったんです。
ひたすら、白ロム作業をしていましたが、同時に他の場所で次の修理の基盤交換をやっているワケですから、やってもやっても翌朝にはその日交換した基盤が積まれていました(笑)

そんな仕事を2カ月ほどして、あるときあれだけ積まれていた携帯電話の山がなくなりました。
8月から2カ月くらい、夜勤も稼働し、24時間体制で修理をさばいていたようです。。

ある程度落ち着いてきた11月くらいには派遣社員も半減していました。
ほとんど記憶がないのですが、知らない間にほとんど残っていませんでしたね(笑)

で、一時的な仕事からメインの修理業務ラインの一員として、私はデータの管理をすることになりました。
先程ご説明した、交換された方の基盤にお客さんのデータを入れ込む仕事です。

これってホント楽な仕事なんですが、データの入力先を間違えるだけで個人情報流出になってしまうためとてもとても大切な仕事になります。修理して集まってくる携帯電話を全て1人で間違いなくデータを入れ込む仕事をしていたため、自分の代わりを育てるのが大変でした。というのも、工場は365日稼働しているため、自分が1人でやっていると休みが取れないからです。

ちょっと、工場の内部のお話をしますと、大手メーカーさんの会社の建物の中で、メーカーさんの社員は実際に修理はしていませんでした。その下請け会社の方々が修理を請け負っていました。総勢で50名くらいいたでしょうか?
で、私たちは件は下請け会社からではなく、メーカーさんから依頼を受けて修理業務に入っていたため、立場的に言えば下請け会社さんと同等の立場にありました。

ただ、最終的にはこの下請け会社が修理工場を切り盛りしていましたので、私もこの下請け会社の社長さんや社員さんと一緒に仕事をしていました。
社員さんも数名だけであとは気楽な年配のパートの奥様達ばかりでした。

個人的には人と接したくなかった私にとって、気楽な人たちに可愛がられながら生活を、生きるということを一歩一歩取り戻して言った感じでした。正社員としてではなく、1アルバイトとして気楽なところからスタートできたことが自分にとっては本当に救いでした。
いろいろなことができていなかった私ですが、床屋に行き、歯医者に行き、服を買い、爪を切り(笑)などなど、1個1個まわりのおせっかいなおばちゃんたちと(笑)ワイワイやりながら少しずつ。。

そんな中で、年が明け2002年を迎えます。

工場での仕事も慣れてきて、生活の基盤もできたころ、工場の近くに引っ越そうと考えます。

3月だか4月だかに引っ越しました。

ここ【たけの引越記録】初めての1人暮らしとなった学生時代
からここ【たけの引越記録】2件目 はじめてお湯の出るアパートへ

それまで原付で1時間かかっていた通勤時間が10分くらいになります。
ここからもいろいろありましたが、、特段仕事としてはずっとデータを入れ込む仕事をしていました。
休み要員もちゃんと作りながら、下請け会社の社長さんや社員さんと仲良くやっていました。

で、2004年の10月くらいにメーカー側から派遣社員の契約終了を伝えられます。
それまで、和気あいあいとやっていた下請け会社の社長さんと話をして、下請け会社の社員として働くことになります。
そこで、これまではデータを入れ込む仕事だけをやっていた私は、全ての工程ができるようにならないといけなくなりそれはそれは面倒くさい格好にはなりましたが、自分なりに形を作っていきました。

年が明け、2005年の夏くらいに、メーカーの社員さんから呼び出され、福岡に九州の修理拠点を作るから、行ってくれないか?と下請け会社の社長さんを飛び越して、直々に頼まれました。。

このときは分かりました、と簡単に返事をしましたが、今考えると、それくらい、自分はメーカー側からも必要とされていたのかなーと思います(汗)

で、その年の11月14日にフェリーに乗って福岡へと旅立ちます。

派遣時代から、福岡に旅立つまでを書こうと思い記事を書いてきましたが、けっこうな大長編となってしまいました。
ここに書けなかったことも多々ありますが、今後状況を見ながら追加をしていきたいなと思います。

ともかく、この携帯電話の修理工場が、40年分の10年を過ごさせてもらったワケですから、いろいろあって当たり前なのですが(笑)ここでは、その前半部2002年から2005年までをお話しさせていただきました。

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