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2005年、11月。
だいぶ寒くなってきてはいましたが、まだまだ、日中は暖かく感じられる季節。
私は福岡へやってまいりました。

このとき、一緒に福岡へやってきたのは上司と同僚の3人。
同僚というのは、派遣時代から一緒で、私が下請け会社の社員になった時に、アルバイトとして下請け会社に入っていました。
このときまだ、20代前半だったのではなかったかと思います。
ちなみに私は27歳くらいでした。

で、上司は飛行機で後日やってくることになっており、私と同僚はフェリーで福岡へ向かっていました。
私は車と一緒に。同僚はバイクと一緒に。

フェリーに揺られた2泊3日は長かったですね。
初日は夕方にフェリーに乗ったので、すぐ就寝でしたが、翌日は1日何もしない時間が過ぎました。
しかも、携帯の電波が海上ということもあり、つながったり切れたりの連続で、ほとんど使い物になりませんでした。。
3日目は朝5:00に福岡の門司というところに船がついたので、実際には丸2日間無いくらいの時間ではありましたが、ともかく、長かったなーという印象です。

で、門司という場所が私には全く分からない。
同僚はもともと、福岡の北九州から東京へ出ていっての出戻りという格好だったようで(笑)、土地勘はある程度あったみたいなので、道案内は彼にまかせました。
福岡の門司というところから、福岡市内までは遠かったですね。。
朝5時ということもあり、道はとても空いていましたが、11月の朝はさむく、バイクで移動していた同僚は凍えていました。
7時過ぎには福岡市内につきましたが、あまりの寒さでカレー屋さんで朝食を取りました。

そのご、不動産屋さんへ行きましたが、当然まだ開いていない。。
時間をつぶした後、鍵をもらい、まずは自分の部屋へ。
ま、悪くないな、と判断しつつ、荷物を同僚と一緒に運び込む。
(参照:福岡上陸!内見せずに決めた部屋はどんな部屋?
で、その後同僚の家へ荷物を運びました。

この日はこれで、部屋で落ち着きましたが、翌日、勤務先に出社。
こちらには、上司の荷物が会社間での輸送で運ばれてきており、それを引き取り、上司が飛行機で到着するまでそこで待った上、合流して、同僚と3人で上司の部屋へ。途中、ホームセンターで布団やら冷蔵庫やらを買い足し、上司の部屋に運び込み、この日は終了。

翌日、私は自転車で近くの駅の駐輪所に停めて、出社。
最初の日は、パートさんたちとの懇親会でした。

パートさんは私たちがこちらに来る1ヵ月前に上司と社長が福岡まで来て面接して選んだ方々でした。
全部で6名?だったと思います(笑)
スタートした最初のうちは、工場内の設備作りに追われました。
パソコンをセッティングしたり、机を運んだり、配線を直したりと、工場を作っていく作業。

で、工場が曲がりなりにも出来上がると、携帯電話の修理業務についての説明や、修理の方法なんかを同僚が丁寧にパートさんたちに教えたり。
そんなこんなで11月は終わります。

ここで、衝撃的な光景を目の当たりにします。
パートさんの中でパソコンなんか触ったこともないという50歳前後の奥さん。
パソコンの画面を見ながら、
「ここに矢印があるでしょ。」
じゃあ、マウスを上にあげてみてください。
すると、すーっと、マウスを持って器用に中にあげたその方。。
一瞬まわりの人たちが固まって、その後
「いや、こうやって地面につけたまま、マウスを移動してくださいね。」
ここから教えなきゃいけないのか!と思いつつ、まわりの人たちは大爆笑。
当然のことながら、クリックとダブルクリックで大苦戦することになりました。。
私が今まで生きてきた中で、マウスを宙にあげた人は後にも先にもこの人だけでした(笑)

12月、本格的な修理ではなく、私が東京で初めてやっていた作業、交換する方の基盤のチェックやら修理やらをはじめます。
パソコンを使って、白ロムにしたり、そのあと、機能が正常に動くかどうかの検査をしたりと、実際の修理工程にもある検査をやっていきスキルを伸ばしていきました。

1月には一部の修理を本格的に始めるための準備として、茨木まで出張研修に行かされました。
その間、上司がパートさんのお世話をしていましたが、ほとんど、同僚の電話が鳴りっぱなしでした(笑)

帰ってきて、2月から本格的な修理業務が始まるということで、パートさんの面接等で人員を増やしました。
総勢で12名くらいになっていたと思います。

確か2月だったと思うのですが、、
一部の修理品が実際に工場にやってきました。
初日は9台だったかな?
朝一番で届いた修理品。
基本的にはその日のうちに出荷しなくてはなりません。
で、終わったのは、21:00を過ぎていました(笑)

全ての工程で、質問が飛び交い、今までの練習期間は何だったのだろうと思いつつ、初日を終えます。
それから、追われる毎日です。
15台、20台、30台。

はっきり言って量としては大したことはないです。
ただ、全員が慣れるまではホントに大変でした。

4月から本格的に修理が入ってくる、1日100台は越えてくる、とのことで、人員もさらに増やし、体制を整えようとしていたさなかに私は辞表を提出します(笑)

結果的には慰留された格好で残りましたが、4月のスタートの時はそれはそれは大変でした。
あまり記憶がないです(笑)

1か月もたち少し落ち着いてきた頃に今度は妹が結婚するとのこと(汗)
ゴールデンウィーク中ということもあって、パートさんたちの人員も足りません。
しかし、上司は行って来いと言ってくれ、私は急遽飛行機のチケットを取り、一路埼玉へ。。

結婚式が終わり、福岡に帰ってきてからは工場も比較的安定飛行に入ります。

ここから安定しすぎて記憶がありません(笑)。
参照(笑):40歳になり、30代から気になっていた記憶力の低下について思うこと

つづきはこちら:第二弾 修理工場の閉鎖まで

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