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2005年立ち上げた九州工場、仕事はといえば、いろいろありましたが、
今回はどう終わったのか?というお話を中心にしていきたいと思います。
本格稼働したのは翌年2006年の4月から。
いろいろ紆余曲折はありながらも、2012年の6月末まで工場としての機能は果たしました。
私はどんな仕事をしていたかというと、パートさんの募集。
広告代理店と今回はどんな雑誌で、どんな文言でなど打ち合わせもほとんど私1人でやってました。
問い合わせの連絡を受け、面接のスケジュールを作るのも私。
で、場所のセッティング等をして、で、いざ面接。
基本的には上司と一緒に行っていました。
最初のうちは上司1人で行っていましたが、途中からはどちらかが欠けてもいいように基本2人でやっていました。
お互い質問する内容は決めていましたが、どちらかというと私が事務的な質問で、上司は気になることを聞いていました。
で、採用不採用を上司と決め、採用者には電話連絡。不採用の方は簡単な書面を履歴書と同封して返却。
次は入ってくる人をできるだけまとめて講習会。
現場に振り分け、ロッカー制服等の準備。
現場に入れる時も担当を1人1人決めて、教えてもらう。
その日の終了時には感想を聞く。
などなど。
パートさんのお世話係をしてました。
新しく入る人=全員皆そうやって入ってきて現場に入っているので、全体の出勤等のシフト作成も私が行っていました。
最大で80名くらいいたでしょうか(笑)
1人ができる工程、スキルを持っている工程はどこかを把握しつつ、シフトを組んでいきますので、1カ月でシフトを組むと、30日分のシュミレーションを頭の中で行います。
必ずどこかの工程に人員の弱いところが出てくるはずなので、微調整を行いつつ、それぞれのパートさんのわがままも聞きつつシフトを組んでいました。
で、1日が始まった段階で、今日はこうやって人を動かしていかないとどこどこの工程が詰まる可能性がある、とチェックポイントだけを頭に入れて、そのキーパーソンが早めに後ろの工程に行けるよう、注意しながら全体を見ていきます。
ポイントポイントをしっかりと注意しながら回していけばそんなに大きな問題は出ないのですが、当日の修理の入荷量が多いとか、一部の部品が足りなくて、昼過ぎに到着するとか、いろいろトラブルはつきもので、、
そうなると、後工程にキーパーソンが回れなくなり、そういった時は自分が後工程に入って当面をしのぐ、なんてことも日常茶飯事でした。
1日1日が自分の中では面白みを持って取り組んでいたので、仕事がつらいということはなかったですね。
まぁ、演劇部の延長線上のような気持ちで仕事してました(笑)。
ただ、社員ということもあり、この仕事で大変だったのは、現場以外でのお仕事でした。
接待というやつですね(笑)
立場上、『課長』という役職を、福岡に来て3年目くらいにもらってからは、親会社の方に誰かが出張でやってくるとか、親会社の社長がやってくる、とか言う時には必ずお呼びがかかりました。
接待費は自分持ちです。
課長手当がいくらだったか忘れましたが(笑)、それ以上のお金が毎月出ていってましたね(笑)
現場の仕事はそんなに嫌いではなかったので、全く苦にはなりませんでしたが、後半、親会社ではなく、自分の会社の方に『部長』という名の、社長の息子さんが入ってきたときはけっこうな勢いで責め立てられました(笑)
結局この息子さんは福岡閉鎖の後も、東京の方が完全に閉鎖するまで(福岡は東京より閉鎖が半年間早かったのです。)この会社で『部長』だったのでしょうが、今は何をしているのか分かりません。。
あまり人の悪口を言いたくないのでここでは書きませんが、まぁ、けっこうな勢いで言われましたね(汗)
で、後半はいろいろストレスも抱えるようにはなりましたが、最終的には2012年の6月末で閉鎖となります。
親会社の責任者、九州工場の責任者もけっこうな頻度で交代しましたが、最初に責任者になった人が、最後に戻ってきて、懐かしい話をしながら、気持ち良く閉鎖となりました。
この方もとても怖い人でしたが、最後には感謝しかありませんでした。
この方のおかげで、6月末で終わった後、7月いっぱい工場閉鎖業務として、1カ月間仕事をさせてもらいました。
最初に机を運んだりパソコンを設置したりしていた作業の逆です。
いらなくなったものを持って帰ったり(笑)、捨てるものと東京の工場へ輸送するもの、借りていたものはそれぞれの場所に返送するなど、こまごまとした作業をしていましたが、それも10日もしないうちに終わります。
最終的には、休憩所で毎日宅建の勉強をしていました(笑)。
2002年の7月頭から携帯電話の修理業務に派遣社員として入り、2012年の6月末で完全に工場閉鎖。
この間、ちょうど10年。
私としては、これは偶然とは思いません。
必然だと思います。
この間の10年で、何が残ったか?
持ち家と不動産投資としての部屋が2つ残りました。(注1)
人間としても幅広く成長させてもらいました。
あのどん底の真っただ中から10年でここまで来ることができたと私は感謝しかありません。
この携帯工場であったこと、特に2005年の11月に福岡に来てから2012年6月まで7年弱の間に起こったことはここでは語りきれません。
また、いろいろなエピソードを含めてお話しできればと思います。
ともかく、私としてもあっという間の10年でした。
このお仕事はここでいったん打ち切りたいと思います。
サラリーマン時代はこんなエピソードもありました。
サラリーマンのゴルフ接待、ゴルフできない、酒飲めないの私には大変でした(笑)
(注1)
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